ピピピピ・・・・
ピピピピ・・・・
ピピピピ・・・・
ん?
アラーム?
ああ
朝か・・・・・
まぶしい・・・・・・・・・
え?
なんか明るい?なんで?ここどこ?
ああ。部屋か。新しい部屋か。
きのう大学に入学したんだった。
いま何時?
え?
え??
え???????
10、10、10、、、、、、10時?????
うそ!やば!
寝坊した。完全に遅刻。最悪。
あわてて電車に乗って学校に行った。
途中、駅のホームで地元の彼氏に電話した。
不安だったから。そしてこの笑える状況を伝えたくなった。
でも出ない。
「まだ春休みなのに。
やっぱ、なんか、、、さみしい。」
大教室の一番前に行って職員に遅刻したことを
話した。すっごく恥ずかしかった。
職員の声は今でも覚えてる。
「大丈夫ですよ。
そういう学生たくさんいますから。」
軽蔑されたどころじゃない。
軽くあしらわれた。
「おまえもか」
そんな感じだった。
馬鹿な学生はごまんといる。
高校時代、毎日毎日親に起こしてもらっていて
朝ひとりで起きることもできない甘ちゃんは。
それが私だった。
授業初日から何やってんだ。
結局、、、ただのコドモか。
ひとりで地元出てきて
ちょっと大人になったとでも思ったか。
ただの馬鹿なガキじゃないか。
もう周りの子はみんなグループができてた。
隣に座った子とまず仲良くなってそれから前後で話はじめて。完全に出遅れた。
私の隣だった女の子は「なんで私だけ隣がいないの」
「なんでこんな大事な日に遅刻してくるの」
って感じですっごく怖い目で睨まれたの覚えてる。
一言も話せなかった。
向こうも話しかけて来なかった。
そりゃそうだ。私だって怒ると思う。
憮然とすると思う。
友達ができないまま1日目は終わった。
商店街の中華料理屋の店先で持ち帰り用の
ギョーザとチャーハンを買って帰った。
2つで400円だった。
「意外と安いじゃん。都会なのに。」
ひとりで泣きながら食べた。
意外と美味しかった。
次の日も大学ではずっと一人だった。
話しかけようにもみんな誰かと話に夢中で
とてもそんな雰囲気じゃない感じがした。
その次の日。
私と同じように友だちを作るタイミングを逃した女の子が一人でいる私を見て声をかけてきてくれた。
すぐ友達になった。
大人しくて優しい子だった。
私は結局自分から声をかけることができなかった。
その勇気も出せなかった。
すでに出来上がってるグループに声をかけるなんてできずに一人でもいいかってかっこつけてた。
ダサ。
高校の時までは友達作りに苦労したことなんてなかった。人見知りでもなかったし、暗くもなかった。
小学生のときは地味で暗かった方だと思うけれど
中学、高校になるにつれて人並みに明るい子として
まわりに思われていたと思う。
クラス委員とかリーダーの仕事も
けっこう率先してやるタイプだった。
そんな自分がこんなマンモス大学でひとりぼっち。
友達ゼロ。自分が恥ずかしくて地元の友達には言えなかった。
黙ってた。彼氏に電話して「授業初日に遅刻して友達できなかった!」って笑い話にしたけど結局そのあと普通に友だちたくさんできたことにして誤魔化した。
ホントは友達一人しかいなかったのに。
もう彼氏にも本当のことを言えなくなっていた。
大学に入学して、はじめて私はそこで
「身の程」というものを知ったんだと思う。
それまでは、生まれてからずーっと地元に住んでて
親がいて家族がいて近所の人がいて先輩がいて友達がいて彼氏がいて。
いつも人に恵まれてた。
自分が頑張らなくても私をよく知ってくれてる誰かが常にそばにいて私の欠点を知らない間に補ってくれてた。
本当は消極的でネガティブで人見知りで
プライドだけは高くて自分からは行動できないヘタレだってこと周りの人のおかげでうまく見えなかったところが一人になってはじめて全部あらわになった。
自分ってこんな人間だったんだ。
こんなにダメな人間だったんだ。
全然大したことなかったんだ。
1人だと朝も起きられない。
友達ひとり作れない。
家に帰ってはさみしくて毎晩泣いてる。
そんな自分。
あと4年。こんなんでやっていけるのか。
こんなに居たたまれなくて、寂しくて、涙があふれてくるのにこれをあと4年もやる???
挫折して帰ってきたって笑われてもいい。
ホームシックになって帰ってきたって憐れまれてもいい。一人暮らしもできない甘ちゃんだって思われてもいい。
帰りたい。もう帰ろう。
でも誰にもそんなこと言えなかった。
だってまだこっちに来て1か月も経ってない。
彼氏にも言えなかった。
そんなところ見せるなんてできなかった。
完全ホームシック。
最後のキスは
たばこのflavorがした
ニガくてせつない香り
明日の今頃には
あなたはどこにいるんだろう
誰を想ってるんだろう
「俺、やっぱ、、いつも一緒にいてもらわないと無理・・・・。」
彼はそう言った。
私が地元を離れて1カ月。遠恋はあっさりと終わった。私は泣いた。一日中泣いた。泣いて泣いて授業もサボって1週間は泣き続けた。ホームシックで涙のスイッチがいかれてたのでそれはそれは泣いた。私はアホだ。
それと同時にめちゃくちゃ食べた。1週間分の食料を買い込んで部屋にこもって泣きながら一日中食べまくった。あの時は狂ってた。大学にも行かずに引きこもり食べて泣いて寝てを繰り返すだけ。
もう大学もやめようと思って
最初の試験すらサボって受けなかった。
初めてだった。こういう馬鹿なことするのは。
取返しのつかないことをするのは。
ただただ食べる。たかが失恋でおかしくなって心が崩壊した。涙腺が決壊した。食欲が狂った。
死にたい。死にたい。死にたい。
自分には生きてる価値がない。
今の苦しみから脱け出したい。
死んで逃げたい。
自暴自棄になっていた。
最後のキスはたばこのflavorがした
ニガくてせつない香り
明日の今頃にはあなたはどこにいるんだろう
誰を想ってるんだろう
当時流行ってたこの曲を何度も何度もリピートして泣いては悦に浸ってた。
馬鹿ばっかりだな。
世間では高学歴と言われるレベルの大学に入ったのに
周りはサークルやバイトばかりして授業にすら出ない
授業に出ても話し聞いてない人間ばかり。
真面目にやってるのは大講堂でもほんの数人。
「こいつら何なの?何しに来てるの?」
親の金で私大に入って勉強もせず、遊びまくって。
そんなことやってて恥ずかしくないのか?
・・・
時間が経つにつれて、ホームシックも落ち着いて
失恋の痛みも少しずつだけど消えていった。
唯一の友達が心配して必死に慰めてくれた。
親も兄も大学をやめたいという私を心配して飛んできてくれた。親にはまさかホームシックと失恋で引きこもってるなんて言えない。大学が合わない、もうやめたいって言った。でも父親は言った。
「大学なんて4年間遊んでおけばいいんだ。
勉強は卒業できる程度にやって、あとは人生の夏休みだと思ってればいい。何も難しく考える必要はない。」
そうなのかもしれない。
みんなと同じように気楽に深く考えずに遊べばいいのかもしれない。何のために来たのかとか何を学びに来たのかとか小難しく考えるから自分はダメなのかもしれない。
母には
「あなた真面目すぎるのよ」
って笑われた。
おかしかった心もだんだんとまともになって私みたいにダメダメな甘ちゃんがさらに大学中退なんてこの先の人生やばいでしょって冷静に考えるようになった。
今よりも当時はもっと学歴重視社会。単純に怖くなった。レールから外れるのが心底怖くなった。怖くて怖くて結局は大学はそのままずるずると通い続けた。
これでいいんだよね?
道を踏み外さなかったし。このままそこそこ勉強して
そこそこの成績で卒業して、就活して、、、
そうやって生きていくのが一番幸せなんだよね?
家にこもりがちだから変なこと考えるんだろうと思ってバイトの時間も増やしてもっと働くことにした。
周りと同じことやるのが一番安心で間違いがないはず。勉強よりバイトやサークルに熱心になってその経験を「大学時代の経験」として面接なんかで語って就職できればいいんだ。
小さな商店街の本屋でバイトして毎日そこそこ楽しかった。そこで働いてた社員の男性は、バブル時代、大手スーパーの入社式をすっぽかして今ここで働いてるって笑いながら話してた。
そんな人生もあるのか。
こんな真面目そうな人でもそんなことやってるのか。
そしてこうも言われた。
「大学生は若いんだしこれから何にでもなれるよね。
うらやましいよ。夢あきらめなくていいんだよ。
ほんっとになんでもなれるんだから。」
なれるわけないじゃん!
とは思わなかった。
若かったから?いや、単純だったからか(笑)
私はそこで初めて
自分は何者でもなれるんだ
って思えた。
なんでだろう。たがか本屋の店員の話で。すっと入ってきた。
つまらない大学、つまらない授業、つまらない毎日。
その中でわずかな楽しみを見つけて暮らしていたけど
このままでいいのか?
大学生ってこれでいいのか?
私はこれからどうすればいいのか?
だけどその何気ない一言で吹っ切れた。
若いって力だ。若いって有利だ。そう思った。
まだ取り返せる。
そこから毎日大学の巨大な図書館に通った。
一日いても全然飽きないぐらいの蔵書数を誇る立派な図書館。
授業も一番前の席で真面目にノートを取って勉強しまくった。単位に関係ない授業まで興味があれば出てた。バイト以外はほとんど大学に居座って勉強してた。
何に役立つかはさっぱり分からなかったけどとにかく今のうちにこの大学から学べることを全部学んでやろうと思ってた。吸収できるのは今しかない。
焦りもあった。
もう大学もあと1年半ほどで終わる。
就活のイベントも少しづつ始まっていた。
就職氷河期。就職できる保証なんてない。
でもさすがに「高学歴」の部類に入る大学だからか
普通にしてれば受かるよ
っていう風に言われてた。
うちの大学名ひっさげて受からないのはよっぽどの馬鹿だけ。そんなふうにも言われていた。
果たして私は就職してOLになるんだろうか?
ここで?
友達も少ない、大した思い出もないこの街で?
ここで就職すれば、ここで誰かと知り合って結婚して
ここに一生住み続けるかもしれない。それは嫌だった。
大学は合わないと思ったのも正しかったけど正確には
この街の地域性とか大都市というものに嫌気が差していた。
都会の雑然とした街並みとか地下の暗くてごみごみした通路とか。人も多くて空気も汚くてそのうえずけずけと人のテリトリーに入ってくる人たち。そういうところは地元の地方都市の方がだいぶ洗練されてた。
単に田舎者だったのかもしれない。でもここで長く暮らすのはちょっと精神的に無理かなって思ってた。
もういいか。地元に帰ろう。そうどこかで決意していた。
地元企業のブースに行ったらおじさんにこう言われた。
「ああ、あなた〇〇高校なの?
うちの会社と同じところじゃない!地元はどこ?
ああ、すごく近いね!
うちは女性は一般職の方がいいよ。
総合職なんかに入るとね、うちには夜11時まで仕事して結婚もできない女の人がいっぱいいるから(笑)悪いことは言わない、一般職受けな。」
絶対、総合職でしょって思ってた。
だって一般職で定年まで同じような仕事繰り返してお給料も大して高くないしあがらないし。転職しようにもスキルがない。絶対、総合職以外ありえないでしょって。
でも当時は女性の総合職は募集の数自体少なかった。
氷河期の影響ももろにあった。とるなら女性より男性。女性は一般職で募集人員は超大手でも1人っていう時代だった。
選べない、選ぶほどの数がない。特に地方の地元企業は。東京に行けば数はあるんだろうけど向こうは早稲田慶應がうじゃうじゃいて競争に勝てるわけないし
それよりもとにかく地元に帰りたかった。もう完全に自分が弱くなってしまっていた。
私はそもそも何で総合職になりたいなんて思ってたんだろう?これからの時代、女性も男性並みに働いて
もしくは手に職をつけないといけないからって思ってたけど別に一般職でもいいんじゃない?
それが身の程に合った職なのかもしれない、特に弱い自分には。
でも一般職でまた今と同じような不満タラタラの毎日を送るのか?
お給料だって少ない。
自由にお金を使える未来なんてない。
モテない自分はお金持ちの男性と結婚するなんてまずないだろうし玉の輿で専業主婦?そんな夢すら見たことなかった。
ゼミで一緒だった美人の子は、アナウンサーを目指してた。東京のキー局から地方の局アナの採用試験を片っ端から受けてそれはそれは頑張って就活してた。
「何でアナウンサー志望?」
何気なく聞いたら彼女はこう言った。
「アナウンサーになって、お金持ちと知り合って結婚して専業主婦になるのが夢だから。」
なるほどと思った。こういう女性が本当にいるのかと。こういうのをある意味世渡り上手っていうのかな。
違う(笑)?
あざとい?
なんか策士っていうか
自分とは考え方が全然違うんだなって妙に感心した。
自信家でモテてないと無理だよね、こういう考え。
その子は結局全滅して、弱小出版社に就職した。
親の仕送りがないと家賃が払っていけないぐらい
薄給だって言ってた。
そしてこう言ってたのを今でも覚えてる。
「この会社、テレビ局にコネがあるから、テレビ局の社員と結婚するのが今の夢!!」
(笑)
今どうしてるだろう。友達やゼミの仲間の就活を聞いて自分もいろんな業種のエントリーシートを何枚も書きながら考えた。私が総合職になりたいのはどこかの会社でバリバリ働きたいんじゃなくてお金を稼いで自立したいからだ。そしてキャリアを積んであわよくばお金持ちになりたかったからだ。
お金が欲しい。
お金があれば楽に生活できる。
親にも恩返しができる。
そう思っていた。
一人暮らしはそういえば貧乏だった。
当時、親は兄にも仕送りをしていたので仕送りは5万円だった。家賃も知人割引でそれぐらいだったから、それは家賃にあてて生活費は自分で稼がないといけなかった。奨学金が月にたしか6万円。でもこれは帰省費用やゆくゆくの就活の費用のためになるべく貯めることにしていた。
バイトは本屋だから時給が低くて稼げない。
だから途中からターミナル駅の喫茶店の厨房で
深夜まで働くようになった。そこはすごく時給がよかった。
でもその頃から食生活は崩れだした。
毎日セブンで弁当とデザート買って体中に吹き出物ができたりもした。生活リズムも夜型になってメンタルも不安定になった。
しかも飲食業の職場。
変な社員や性格的に難がある人が多かった。
肉体的にしんどい、上下関係厳しい、がさつな人多い
薄給で妬み僻みが強烈。怖い人、訳わかんない人も多かった。
職場の人間関係に苦労するってこういうことなのかを初めて知った。
今でもよく思う。
飲食業とかサービス業の世界って単純にハードだし
低学歴の人とか訳アリの人多くってホワイトカラーの職場と全然世界が違う。人生に強い不満を抱えてる人も多い。急に職場に来なくなる人も普通に多い。職業に貴賤はないって言うけどあれ大嘘ですよね。
どーしようもない人が働いてるブラックな職場はたくさんある。妬みや誹謗中傷、暴力暴言に溢れてるけど
しょうがなく働いてる低賃金で底辺の職場はいっぱいある。
就職するなら飲食業はないなって。
嫌だなって。
だけどもし今ここで総合職なり一般職なりで働いて結婚してやめたら
自分もファミレスやスーパーなんかでパートするしかないんじゃない?って。
それ、飲食じゃん。(笑)
おもっきり飲食・サービス業・・・。
就活をしていく中で、大企業で総合職もしくは一般職でっていう恵まれた職場環境の職には就けない気がしてた。そういう席はそもそも氷河期で一つか二つで
いち早く都内の早稲田慶應卒の子が取っていく。
そんな能力自分にはない。その差は歴然と感じていた。面接で上手に話せないし、愛想もそんなにない。
学歴も早稲田慶應ほどじゃない。勝てない。
何千人って応募してきてる中で
その中の一人になれそうもない。
じゃあどうしよう。何すればいい。
就活やめる?
フリーターになる?
新卒というカードは今しか切れないのに
そのチャンスをどぶに捨てる?
自分はいったい何がしたいんだろう?
どういう人生を送りたい?
どういう人間になりたい?
そもそも今の自分がこんなにも毎日に満足できないのは
どうしてだろう?
結局、ぎりぎりセーフで地元の雑貨メーカーに新卒入社することになった。でもアルバイトみたいな待遇。
何とか「好きなこと」に関係する仕事に就いたものの
これじゃない
感を感じて悶々としていた。何かが違う。小さい頃に自分が想像していた自分と、理想としていた自分と全然違う。
地元の友達も不況のせいか、キャリアの積めない仕事にしか就けず3年で寿退社が普通だった。
もう結婚にしか逃げ道はない。
経済的に不安がなく生活できるにはもう結婚しかない。
そういう気持ちもあって、夫と出会って1年で結婚した(笑)若かったし、策略的だったと言えばそうかもしれない。でもそれで自分は何かできるような気がするんだから若いって、女って・・・勘違いが恐ろしい。
一人じゃ無理だけど、夫がいれば上京もできると思った。夫も野心家で起業志望だったから二人で何か見つけて帰ってこようみたいな気持ちもあった。
20代は自己投資しよう。
日本の首都である東京を体験せずにして、事を成せるか!という気持ちもあった。
若い二人・・・
東京に出ると見える世界がこれでもかというぐらい変化した。ああ、今まで自分は日本のなにを見ていたんだろうと。
世の中にはいろんな人がいていろんな生き方をしている人がいる。おもしろい人、おもしろい場所、おもしろいことがこんなにたくさんある。
親のお金で通った大学の4年間。
親や慣れ親しんだ友達がすぐ近くにいる地元での生活。
そういう昔のつながりや視線から離れてふたりでつくりあげる生活がこんなにも自由で楽しいものだとは想像もつかなった。
夫は目標に向かって邁進していた。私はとりあえず生活のために派遣で事務員をしながらいつかの事業のためだと思っていろんなことに手を出して毎日必死に考えてた。
そういえば小学校の卒業式で証書をもらうとき
「将来は~になりたい。」っていうナレーションが流れる演出があった。
そのときは
ファッションデザイナーになりたい
と言っていた。
ただ今でもそれは夢。ただ目標じゃなかった。
現実的にそれを仕事にしようとは考えてなかった。
今思えばデザイナーになりたいんじゃなくて
アパレルブランドのオーナーになりたかったんだよね(笑) 雅姫さんみたいなね。
20代の私はもっと現実的で
スモールビジネスのオーナーで経済的に自立できる仕事
を模索してた。
女性が一人でやっていける仕事って当時は美容師とかエステティシャンとか。美容系、健康系なら息が長いはず。それはわかってた。それでブームに乗ってヨガをはじめたっていう面もあったけど数年やってなんか違うっていうのがわかった。
結局自分一人の労働力で得られるものはたかが知れてる。
でもいきなり会社を興そうにも資金はない・・・
当時はそんなことばかり考えながら、手あたり次第興味のあることに散財してた。人生経験を積もうと必死だった。大学時代はただひたすら勉強するような毎日を送ってたけれど今度はいろんな場所に出かけて行くことに必要性を感じてた。
東京に来たばっかりの頃は田舎根性丸出しで(笑)
話題の店、雑誌に載って気になればすぐ行って、デパートで催事があれば出かけて、展示会があれば会社休んで駆けつけて。東京が地元の同僚よりはるかに店に詳しくて驚かれたな。
何が将来につながるのか、ただの娯楽なのかよくわからないままだったけど興味の赴くままに動いていれば必ずあとで点と点がつながるだろうってどこかで信じてた。
洋服店、ギャラリー、画廊、本屋、カフェ、スクール、セミナー、雑貨店、インテリアショップ、家具店、アンティーク店、パン屋、お菓子店・・・。
特にお菓子。
東京限定、東京にしかない店、有名パティシエの店はほとんど行った。オーガニックカフェを開拓したあとはケーキ、ケーキ、ケーキ。ケーキを一体いくつ食べたかわからない。毎週ケーキ・・・。
ケーキ食べるともちろん太るから、またダイエットに関する情報漁って。そんな繰り返しはそのころからしょっちゅうやってた。だからなのかケーキやめることなく体型維持ってできるよねって思いはある。
ケーキ食べては食事を抜いて体重落とすことを何度もやってた。これが30代で「何を食べても痩せない」リバウンド状態を招くことになるんだけど・・。
ラッキーなことに東京はいろんなものが最高レベルで手に入る街。最新の情報もサービス、最新のお店、ハイキャリアな人たち。お金を出しさえすればいろんなことを体験できていろんな場所に顔を出して一流のものに触れることができる。この経験がまだ若い自分の糧になるはずだと信じてやまなかった。
時代的に食の安全が叫ばれていた頃。
ビーガンのスタイルにもハマったりした。
そういえば大学時代にそういうテーマで論文書こうとして教授に止められた。「専攻と違うでしょ」って(笑)都内のいろいろな自然食品の店に通って、自分で買うのはもちろんどんな人が買ってるのか見るのも楽しかった。なんだろう、楽しい。漠然とそう感じた。
自分の体のため、家族のために、何かをするってすごく楽しい。
東京にいるとどんどん新しい飲食店もできるから飽きない。流行もどんどんどんどん変わる。それを楽しんでた。東京にはほんとうにすごい人がいっぱいいる。
なんでそんなにちゃんとしてるの??って人にたくさん出会った。
オシャレで可愛くて美人でお金稼いでて賢くてモテてスタイル良くて・・・
みたいな人いっぱいいる。
そういう人を毎日見かけたり一緒にいたりすると嫌でも意識は変わる。知らないうちに影響を受けてて自分もそうなれるかもって錯覚する。
実はこの錯覚っていうのが大事で、錯覚が現実になるきっかけをくれる。身近な人が素敵なら「自分も真似すれば近づけるかもしれない」って勘違いすることって大事だと思う。
小学生の男の子が
「いつかプロサッカー選手になれるかもしれない」
って思うのと同じで。
ただ東京は嫌でも身の程を思い知らされる街でもある。なんであんな風にはなれないんだろう。なんで私はこうなんだろう。劣等感をこれでもかこれでもかと押し付けられて疲弊する街だと思う。その中で自分は自分だというメンタルを持つのはどれだけ難しいことか。
大学時代に初めて人間関係をイチから作れない自分に気づいて、そして夫の支えの元にまた新しい街に住み始めて気づいたのは自分が何よりも変えるべきなのは
メンタルだということ。メンタルの弱さ。ヨガに傾倒したときにもその必要性は感じたけれど、途中でやめたってことは結果的には逃げたのかもしれない。
そして出産子育てをすることで誤魔化したのかもしれない。今はそう感じるようになった。
メンタルの強さが人生を左右するということ。
これに気づき始めたのもそのころだった。
勉強して、経験してやっと見つけた気がしていた。
今考えると26歳が私の転機だった。
上京したのは26歳。
あなたは26歳の法則って聞いたことある?
吉本の漫才コンビ、博多華丸・大吉の大吉さんの
著書の中に興味深い考察がある。
「時代を司る者とは、すなわち26歳で人生の成功を確定させたものを指すのではないだろうか?」
志村けんさんがドリフターズに加入して人気が爆発したのは26歳。
タモリさんが芸能界に入るきっかけとなる人物に会ったのは26歳。
ビートたけしさんがツービートを結成したのは26歳。
明石家さんまさんのブラックデビルが誕生したのは26歳。
ダウンタウンが「ガキの使いやあらへんで!!」を始めたのは26歳。
とんねるずが「とんねるずのみなさんのおかげでした」を始めたのは26歳。
ウッチャンナンチャンが「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!」を始めたのは26歳。
ナインティナインが「めちゃ×2イケてるッ!」を始めたのは26歳。
そこに規模やタイムラグといった個人差があるにせよ人間には「26歳」の時に人生を好転させる何かが必ず存在する
テレビ業界だけじゃなくて
アインシュタインが相対性理論を発表したのは26歳
なんてのもある。
そして野球をよく知らなくても知ってるスター選手たち。。
野茂投手が大リーグ挑戦を宣言したのは26歳。
イチロー選手の大リーグ進出も26歳。
松坂投手がメジャー行きを宣言したのも26歳。
ダルビッシュ投手のメジャー初シーズンも26歳。
稀代の成功者と自分の転機を結びつけるのなんて
図々しいにもほどがあるでしょうかw
だけど絶対ある。みんなあるはず。
よくよく考えたらあれ、26歳だったっていうことある。
成功者じゃないけれど、意味付けしてもいいと思える
転機が確かに26歳にあったと私は言える。
ちなみに夫が私と結婚したのは・・・・26歳(笑)
そして面白いのはここから。
26歳から12年後の38歳。この歳に転機を迎える人も多かったっていう話。
ベートーベンが『運命』を初披露 したのは38歳。
アームストロング船長がアポロ11号で月面着陸したのは38歳。
ビル・ゲイツが世界長者番付1位になったのは38歳。
ソフトバンクの孫社長がyahoo!JAPANを設立したのは38歳。
38歳は「人生観が大きく変化する」年齢だと言われています。それまでにある程度の成功を収めた人が、これから先の人生を他人のために捧げ始めるのが、38歳というタイミングらしいのです。
人は38歳で、優しくなるのかもしれません。
ガンジーとマザーテレサが社会のために活動を始めたのは38歳
・・・・・
世の中の多くの女性が一度は悩むダイエットというものに自分も深く悩むようになっていく。
それはきっと自分の弱いメンタルと決して無関係じゃない。そのことに気づいた。でも自分は何でもできるとまだ信じていた。あの本屋の店員から言われた言葉を30代半ばでも愚直に信じていた。
私はまだ何もやってない。大学に行かせてもらったうえ、大した仕事にも就けず、親に苦労をかけ結局は結婚に逃げ、絶対的な安心がないと上京もできず、精神的な成長を求められる局面で出産と子育てに逃げた人生。そんなものしか送ってきてない。
だけど何かやらなければと強く思っている。
自分は何かできるはずだという思っている。
生まれてきたなら社会に何か与えなければと信じている。
私があなたに伝えられるものはなにか?
何かあるのだろうか?
こんな人生しか送ってきていない糞な自分に
何かできることがあるのだろうか?
あるんじゃないか。
きっとあるはずだ。
悩んできたけどそのぶん考えてきた。
ダイエットという大きな悩みをどうにか解消しようと
何が太らせているのか、本当は何が原因なのか
私もずっとわからなくて苦しかった。
でも考え続ければ答えは出る。
それが人間の脳のすごいところだってこの間学んだばかりだったじゃないか。
私は間違いなく、勘違いし続けてここまで来た。
サイトを立ち上げて、今まで得てきた知識と体験を詰め込んでメルマガをつくりはじめた。
巷の教材もたくさん見たけど納得いくものが少なくて
自分の思いを伝えようと思った。
いや、伝えるべきだと思った。
今だから書ける。20代だったらまだ書けなかった。
人生に無駄な事なんて何もないって言葉は月並みだけど本当だと心底思う。
だって私の人生どう盛ってもグダグダだから。
さみしいってピーピー泣いて、振られてピーピー
就職したくないわー、結婚しちゃえって(笑)
真面目に生きてきた人を怒らせそうな人生。。
貯金なんてしてこなかったけど、東京では収入が多いから自然に使わないお金が貯まってなんとかなった。
だけど子育てで地元に帰ってきてからはカツカツだったこともある。夫婦30代+子一人で総預金残高4万円っていうのが笑えてきて撮ったスクショが今でもスマホに残ってる(笑)
でも自分の望む人生を生きるため、誰かの役に立つためこの社会に貢献するため、何かをやろうというその熱意だけはあり余るほどあったと思う。
それだけはブレてないかなと思ってる。
やっぱり点と点は最終的につながるんだという思いはある。
人に誇れるような、大きな声で言える人生ではまったくないけれど
悩める人にこうやって何かを伝えるために今までの迷走はあったんだと思える。
そう思えるようになった。
やっとなった。
上手くいかなかった今までの人生も、何が起こるかわからないこれからの人生も。
きっと自分のアンテナや信念次第でいくらでも変わるんだってこと。
今からでも人生は変わる。それを伝えたい。
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私はようやく
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38歳になりました。
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