いくら大変だからっていつまでもこれを振りかざして生きてる女はみっともないと思いませんか。
私は幸か不幸か子育てがあるからって仕事やめることも制限することも
できなかったので使えなかったけど、もし使えてたらどうなってたか。恐ろしいです。
絶対あぐらをかいていたと思う。仕事はあくまで片手間で家事と育児を日々一生懸命こなせばそれでOKって
自分で自分を納得させてたと思う。

結局人は楽な方に流されるのだから、子どもが成長していわゆる「お世話」がなくなっても
食べ盛りの子どもがいるから(料理に時間がかかる)、習い事の送り迎えが要るからとか
勉強をみてあげないといけないからとかいろんな理由をつくって自分の果たすべき仕事を疎かにする。

家庭で働くのと社会で働くのとでは何もかもが違います。
社会貢献度、自立心、心構え、時間管理・・・。何より今の時代、
女性であろうが社会で働くべきだという、権利ではなく義務になっているように感じます。
実際、男女平等に職業選択の機会が開かれている社会は今までありませんでした。
「女性に開かれていない部分」だけを取り上げてまだ女性は社会進出できる社会ではない
と家にひきこもるのは違う気がします。もう家事はおろか育児の免罪符は使えなくなったのです。

昭和の価値観を無理やり受け継いで、社会に出て働いてお金を稼いで自立するということから逃げて
家族のために自分が家になるべくいないといけないと思い込ませて。
小学生ぐらいだとしても小さな(?)子どもがいるからダイエットも満足にできないとか言うけれど
じゃあできる人は何でできるのか。それはもう「自分に対する甘さ」の違いとしか考えられない。

自分以外の何かに原因を押し付ける人というのは
たいていどんな時もそうします、無意識に。ベクトルが自分じゃなくて相手に向かう。

子育てで自分の時間がもてない→お金があれば自由にできるのに→稼いでこれない夫のせい
子どもが小さいから就職活動ができない→夫が育児を分担してくれればいいのに→労働時間が長い夫(もしくは会社)のせい
ダイエットがうまくいかない→育ち盛りの子どもがいるから献立を変えられない

結局他人に責任を押し付けてるんですが、相手にベクトルが向いてるようで
実は関心は全部自分だけに向いているんですよ、こういう人は。実際は子どもとか夫のことを
考えているわけではないんです。自分のことだけです。
思考の出発点が「自分」なんです。「自分」がどう感じるかだけ。
自分の価値観のみで物事をとらえ、善悪の判断を下し、自分の感情を最優先して考える。
自分の世間体や自分が妻として、女性として、母親としてどうみられるかを常に
一番に考えている。そういう人です。そういう人は必ずこの「子育ての免罪符」を使っています。

自分が仕事を一番にやってないのは子どもを育ててるから。
子ども1人ならフルタイム、2人ならパートタイムでもいい、3人なら働かなくていい?(笑)

働くのは自分のためじゃない、社会のためです。そして子どもは社会からのあずかりもの。
お金はイコール社会です。社会がなければあなたも私も生きてはいけません。
水道も使えない、電気・ガスも使えない、道路も車も使えない
お店もない、物も買えない。社会の中にいられないとはそういうことです。
人は生きてるだけで社会に生かされているんです。

働く、働かないは「自分」中心に決めることでは本来はないのです。
社会から日々恩恵を受けているのだから、社会の為に働くのは当たり前です。
社会のために働いてないのなら、あなたは泥棒です。社会から奪っていくだけの
人間です。社会(=お金)の循環から外れてるわけなので当然そういう人間は貧乏人なのです。
そういう意味でこの社会では貧乏人は恥であり泥棒であり責任回避マインドの持ち主でもあります。

田舎で子育て中のママたちと会話をしていると時々昭和にタイムスリップした気分になります。
そういう意味では都心はパラダイスでした。新しい価値観を受け入れる土壌もあるし
何より人も街も経済的に潤ってるので妬み嫉みがほとんどありません。
やはり資本主義社会では稼いでナンボなのです。人生、お金がなければ楽しいことはほとんどできません。
莫大な遺産を受け継いだとかでもない限り、社会に出て自分の食い扶持を稼ぐことほど
自己肯定感を強固にしてメンタルを安定させてくれるものはないと思います。ダイエットするにも
何をするにも「自分を成長させたい」と思えばそれが拠り所になるはずです。それがないからぶれる。
それがないから挫折するんです。目標が達成できずに途中でいつもあきらめる人というのは
「社会での立ち位置」がぶれぶれの人間です。足元がいつもグラグラ揺れているから、すぐ崩れるんです。
そういう人間は、育児、更年期、介護・・・といった免罪符を次々と使い倒して結局何一つなさないまま
人生を終えていく人たちです。