いつかはフォード車に乗るのもいいかなあ~なんて思っていた頃もありました。
残念ながら日本から撤退してしまいましたが、ロゴとかすごく好きで。
キムタクがサンタクで乗ってたのも有名ですね。。
ヘンリーフォードってすごい人なんですけど
[amazonjs asin=”4122039851″ locale=”JP” title=”藁のハンドル (中公文庫―BIBLIO20世紀)”]
この本に面白いことが書いてありました。100年近く前にこんなこと考えてた人がいたってことに驚きますね。
人がもし何も使わないのなら、浪費は生じない。当たり前である。しかしこれを別の角度から見てみよう。
もし私たちが何一つ使わないとしたら、すべてが浪費ではないのか。公共的資源の利用をまったく取りやめる
ことは、保存なのか、それとも浪費なのか。ある人が老後の準備のために、その人生の最もよき時代を倹約一筋に生きることは、彼の財産を保護することになるのか、
それとも財産を浪費することになるのだろうか。彼は建設的な倹約家であったのか、あるいは破壊的な倹約家であったのだろうか。浪費を計算するにはどうすればよいのだろう。ふつう、私たちは浪費を物で計算する。ある家庭の主婦が、
家族の食べる二倍もの食料を買い込み、余ったものを捨てるなら、彼女は浪費的だと考えられる。
といって逆に、家族に必要な食料の半分しか与えない主婦は、倹約家なのだろうか。けっしてそうではない。
彼女は先の主婦以上に浪費的である。なぜなら、彼女は人生を浪費しているからである。彼女はその家族から、
社会で働くのに必要な体力を取り上げているのである。
(中略)
これは私たちが人間の時間というものの価値をひじょうに軽んじ、反面、物質の価値をひじょうに
重んじているからである。
むやみやたらに節約してる人たちっていうのは物の背後に存在する時間というものが見えてないんですよね。
フォードは事業家なので物の背後には労働力が存在するということを述べてるんですが、再三
資源の浪費よりも、人生や労働の浪費をなくせと主張しています。
この世にたくさん存在する節約主婦なんかは節約したところで失う人生経験、知的体験などを
ごっそりと失っていることに全く気付いていません。
節約することによって、夫や子どもの「生活に対する満足感」「仕事や学習や社会貢献に対する意欲」を下げ
まわりまわって、家庭に入ってくる良縁やお金が貧困になっているということにも。
人生で得られる経験や体験こそが自分を経済的にも精神的にも豊かにしてくれ、結果的に人生を豊かにしてくれるという
事実も理解していません。だから結局死ぬまで預金残高を気にしてお金を貯め続ける生活の末死ぬのです。
それが節約主婦の愚かな末路です。