教養を身につけるとは、歴史や文学や哲学や心理学や芸術や生物学や
数学や物理学やさまざまな分野の知の体系を学ぶことで、世界を知り
自然を知り、人を知ることです。
世界を知り、自然を知り、人を知る。すると世の理が見えてきます。
(中略)
なにより、そのひとの人生そものが豊かになる。学ぶことそれ自体が楽しくなる。
教養は、一生かけて身につけ続けて、絶対に損のないものです。
しかも、いつからだって学ぶことができる。
教養がいかに「使える」ものなのか、教養がいかに「人を知る」ために不可欠なものなのか
教養がいかに「面白くてたまらない」ものなのか。(以下略)

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ダイエットを教えていると
こういう時はどうしたらいいですか?次は何したらいいですか?
こういう悩みがあるんですけどどこが悪いんですか?
と具体的な解決策を欲しがる人がたくさんやってきます。
もちろん私はその解決策を知っているので教えることができるんですが
それは痩せるために役立つ知識であっても「太らない」ためには使えない知識です。

この違いがあなたにわかりますか?

一般的に「教養がある人」というと賢い人というイメージがあると思います。
そしてそれはかなり正しいです。私自身「教養がないね」と言われると一番ショックを受けると思います(笑)
やはりこの世のいろんなことについて幅広い知識がある人というのは
ダイエットという小さな悩みについてもその大量の知識を総動員して解決しようとしているからです。
これはもちろん無意識にやっているんでしょう。自分の持っている知識の中から使えるものを
引っ張り出す。そしてそれらを組み合わせるバリエーションが無限にある。これは強いです。

心理学の素養も無い人間がダイエット中のメンタルをうまくコントロールできないのは
当たり前です。基本的な知識すらないから何がどうなっているのか見当もつかないからです。

世界を知り、自然を知り、いろんな人を知るということは自分の経験では圧倒的に足りません。
そのために書籍があり、学校があるわけです。そこから何かを学んで自分の人生に使える人が
何をやってもうまくいくのは当たり前かもしれません。

痩せないことを苦痛に思って精神的に病んでるような人の多くは経験と教養が足りない印象を
受けます。よって視野が狭いし、価値観も固まっている。頭がガッチガチです。
世の中はいろんな人がいる。いろんな考え方がある。いろんな生き方がある。
こんな単純なことにも気づいていない人が大勢いるんですね。
それは本人のもともとの性格によるものか?と言ったら私は違うと思います。
自分の限られた経験に対してもどう意味づけしているかによってその人の今後の人生は大きく変わるからです。

例えば学校で大勢の前で恥ずかしい目にあった、侮辱された、いじめられた、そういう経験をトラウマとして
一生持ち続けて鬱になって太る人というのは山ほどいますよね。
それは「自分は生きるに値しない人間だ」とか「いじめられる要因が自分にあったんだ」
「自分は暗いからダメなんだ」と自分が悪かったからと決めつけてしまっているから起こる事です。
その経験を一方的に「いやな思い出」と意味づけしているからです。
一方、学校時代にいじめられようが、馬鹿にされようが、恥をかこうがたくましく生きていける人がいます。
それはそういうはたから見れば「かわいそうで」「思い出すのも恥ずかしい」「悔しくて悲しい」出来事を
「いやな思い出」と意味づけてはいません。大人になればもっとひどいことはいっぱいあるし、世の中には
もっとひどいことはいっぱいあって、それを乗り越えている人がごまんといることを知るからです。

ものを知らない、教養がないということは「人を知らない」ということです。
人を知らないということは自分のこともよくわかるわけがありません。
自分はなぜ太ったのか?痩せるにはどうしたらいいのか?
一体私は何を望んでいるのか?

教養が役に立つというのはあくまで結果論である、ということです。
教養ってムダなものです。教養を学ぶとは、時間をかけてなんの役にも立たないムダなことに
熱中することです。役に立つかどうかなんてあとからついてくるおまけにすぎません。
誰しもが好きなことには寝食忘れて没頭する。そんな経験をお持ちだと思います。
教養とは、好きで好きでたまらなくて没頭するという体験によって、結果的に身につくものです。
だからムダなことに時間を費やしてください。どうでもいい分野に熱中してください。
役に立つかどうかはいっさい保証いたしません。
でも、あなたの人生がそれによって、豊かになる。それだけは保証できます。